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rexus別館

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apotosis vol.8

apotosis vol.8


DAY13 Sion

 鬱蒼と生い茂った木々の間を無数の足音が駆け抜けていく。既に陽は落ち、暗澹たる闇が世界を覆い尽くす時の頃。
 視覚から得られる情報はさほど多くない。しかし、俺の耳は確かにそれらを捉えている。肉を欲する獣達の息の音を。鋭い爪が土を抉る乾いた音と、強靱な体躯が風を切る鋭い音を。ここで止まれば確実に殺される。俺の本能はそう警告している。事実、彼らと戯れている時間など微塵も残されてはいない。そもそも、幾ばくの猶予さえも与えられてはいないのだ。
 改めて確かめるように顔をあげる。俺の瞳は再びそれを捉えて、胸を掻き乱すような焦りが込み上げてきた。目の前にそびえ立っていたのは細長い光の塔。ヘキサグラムが完成したという紛れもない証拠だ。
 それに気付いたのは数刻ほど前の事だった。耳をつんざく鋭い音と共にそれは姿を現した。明日には神殿に着くだろうーー少し前に交わしたその言葉が酷く虚しく響いて。何が起こったかなど誰の目にも明らかだったのだ。そして、月明かりが照らし出したカイの顔を見て、ゾッとせずにはいられなかった。眉間に刻まれた深い皺。醜く歪んだ唇。剥き出しになった歯。ギラギラと輝く大きな瞳。獣のような、などという言葉が無力に思えてしまうほどの険しい顔がそこにあった。咽の奥からうめき声を絞り出して、それを合図に走り出す彼。それは、今までずっと内にため込んできた「何か」を吐き出した瞬間に思えた。

 どれだけの時間が経ったのだろう。ねちねちと絡みついてくる闇は感覚をも鈍らせる。それはわずか一瞬であったかも知れないし、とてつもなく長い間だったのかも知れない。黒い絵の具を塗りたくったような森が途切れ、その先にレファスタ神殿はあった。
「あれだ!」
 そう叫んで足を踏み出すカイ。しかし、神殿まであと少しという所で立ち止まってしまう。暗闇に溶け込んだ異様な気配が、その先に進む事を許さなかったのだ。
 肌に突き刺さる無数の視線。荒々しい息遣いの協奏。今にも飛び出さんばかりに土を掻く鋭い爪の音。このまま逃がすつもりはないらしい。そして俺達もまた、まともにやり合う余裕など持ち合わせていなかった。
「俺がいいと言うまで目を瞑っていろ。絶対に開けるんじゃないぞ。そして合図をしたら、何も考えずに神殿まで全速力で走るんだ。いいな?」
 二人ともがその真意を計りかねているようだった。「しかし」と口を挟んでくるカイに「いいな」と威圧的に問いかける。もちろん抗う余地など与えはしない。それから二人の顔を一瞥して、空にヘカ<太陽魔術>の印を結んだ。アドビスで使ったものと同じ魔法だ。殺傷能力こそ持ち得ないが、活路を見いだすには十二分であった。
「太陽神よ、我に力を与えたまえ! ダェグ・ケン!!」
 術の発動と共に、空を切る鋭い音が響き渡った。次いで、閉じた目蓋の裏側がオレンジ色に染まる。所々に緑色の血管が透けて見えて、それは、俺が放ったヘカが如何に強いものであるかの証でもあった。
「よし、いいぞ! 走り抜けろ!!」
 暗闇を切るように走り抜ける足音が三つ。それに追従し得るものなど存在しない。代わりに、耳障りな唸り声があちこちに木霊していた。
 呪われた饗宴から抜け出すべく、パックリと開いた扉から神殿の中へと駆け込んでいく。まず鼻についたのは生臭い鉄の臭い。マントで鼻を覆いながら、辺りをじっくりと見渡してみた。俺の目がとらえていたもの、それは至る所に描かれた魔法陣の数々。紅の光を帯びたそれらは強力な障気を放っている。そして部屋の奥には開いた扉が一つ。入り口と同じく、俺達を誘い込まんばかりにパックリと口を開いていた。
「どうするの? シオン」
 これが罠である可能性は多分にある。しかし、他の道を選ぶ事に対するリスクもまた、皆無とは言い切れないのだ。
「行くしかねぇ……か」
 その言葉を聞くや否や走り出すカイ。互いに頷きあうと、俺達も彼の後を追って走り出した。

 神殿の最深部までは一本道で進む事が出来た。途中で迷う事もない、魔物に出くわす事もない、全てが不自然なまでに出来すぎていたのだ。そして水晶の眠る部屋にたどり着いた瞬間、あまりに凄惨な光景に思わず息を呑んだ。
「ひっ……」
 蛙を握り潰したような声を上げるイリア。しまったと思いながら、半ば強引に、彼女の身体を引き寄せる。勢いよく飛び込んできた小さな身体。それは痛ましいほどにブルブルと震えていた。
「あ……ぁ………シオ……なんで………」
 堅く抱き締め、背中を撫でてやる事しかできなかった。その行き先を求めていたのだろうか。彼女の指先は必死になって俺の背中を掻きむしっていた。耳元で響く嗚咽を聞きながら、その指先が俺の心すら抉っているように思えて仕方がなかった。
 彼女が見てしまったものーーそれは血にまみれた無数の遺体。四肢を寸断されたそれらは、まるで人形の如くあちこちに散らばっている。そして部屋の中央には魔法陣が、血を吸って鮮やかな紅に染まっていた。その中心から天に向かってそびえたつ蒼白い光の塔。それを見た瞬間に全てを悟ってしまった。ここに魔物がいない理由を。俺達を最奥まで招き入れた理由を。
「全ては動き出した……そもそも俺達に抗う術など無かったという事か」
「どういう事です!?」
「解らないのか? ヘキサグラムは動き出した。俺達にそれを止める事など出来ない。奴はそれを知っていたから、だから最奥まで招き入れた。何も出来ないと知っていて。戻るんだ……今すぐに!」

DAY14 レファスタ以南の街マリス

 肌に絡まりついてくる冷たく乾いた空気。うっすらと紅に染まった地平線。圧倒的な支配力を誇った闇はなりを潜め、そこに存在するのは、陽の光に護られた人間達の世界だった。
 徐々に近づいてくる街門を見つめながら、ある一つの違和感が胸の内に起こってきた。即ち、何故彼らがそこにいるのかという事。例え遠くにあろうとも、それがアドビスの国旗である事を、決して見逃しはしなかった。このような辺境の地に何故彼らがいる? 曖昧模糊とした疑問は、輪郭を為しつつある不安へと、少しずつ形を変えて行く。酷く疲れていた筈だ。夜通し走り続けて、おおよそ思考というものが機能し得る最悪の状況にあったと、それを疑う理由などどこにも存在しない。しかし、俺の本能は、実体のない警告を発し続けていた。
「止まれ!」
 強引に兵士達のバリケードを越えようとするカイ。無防備な彼の身体が鋼鉄の鎧へとぶつかっていく。砂を蹴る音、そして鋼鉄が奏でる鈍い衝撃音が響き渡った。圧倒的な力の差に崩れ落ちるカイの身体。しかしそれで諦める彼ではなかった。すぐさま上体を起こした彼は、歯を剥き出しにしながら、兵士達をギロッと睨み付ける。だがそのような抵抗も虚しく、武装した兵士達は、すぐさまカイの周りを取り囲んでいった。
「貴様ら何者だぁ? 神殿の方からやってくるとは……まさか魔物の仲間じゃねぇだろうな?」
「見て解らないのか?」
 わざと嘲るような口調を選んでいた。カイに向けられた視線が、アドビスで俺に向けられていたそれに見えて仕方がなかった。
「あぁん? 何だと……?」
 解りやすく挑発に乗る男だ。そう思いながら、懐に忍ばせていたミトの親書を突き出してやる。
 それを見た瞬間、彼の表情は一変した。
「俺達は女王の命で動いている。確認しろ」
「あ、はいっ……失礼します………………も……申し訳ありませんでした! おいっ、その方をお離ししろ!!」
 解放されたカイがぎこちなく立ち上がった。彼は土にまみれた服を叩きながら、もう一度兵士達を睨み付けた。すっかりと萎縮してしまった兵士達は、ただ顔を伏せ、口を結んでいるだけだった。
「どうしたの?」
 そこにやって来た一人の女。だが、明らかに周りの兵士達とは雰囲気が違う。人の目を引く豪奢な鎧を纏い、何人もの兵士達が彼女を取り囲んでいた。少しはまともな話ができる人間ならよいのだが。
「はっ……はい、この方達がこれを……」
 うやうやしげに親書を差し出す兵士。女は声もなくそれを見つめ、納得したかのように、一度だけ頷いてみせた。
「これはお返しします。部下の非礼をお許し下さい」
「いや、それより何があった? 何故ここにいる?」
「オッツ・キイム全土に非常事態宣言が発令されました。現在、神殿周辺地域には厳戒態勢が敷かれています」
「その理由は?」
「魔物達がアドビス城及び城下を襲撃しました。それによってアドビスは陥落。今から27時間前の事です」
 全身の毛穴が開いていくような、そんな嫌な感触が体中を伝っていった。
 気分が悪い。胸がざわつく。筋肉が弛緩していく。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。しかし、動揺する事を許されたのは、ほんの一瞬の間だけだった。
 すぐ横からザッと砂を蹴る音が聞こえてくる。それに続くのは金属がぶつかりあう音と、驚いたような人々の声。ようやく視線を移すと、そこには、繋がれた馬にまたがるカイの姿があった。
 暴れ狂う馬をよそに剣を引き抜くカイ。それを一振りして、馬を繋ぐ縄を切り落としてしまう。束縛から解き放たれた馬は甲高くいななき、前足を大きく振り上げた。
「「隊長!!」」
 指示を仰ぐ兵士達の声があちこちから聞こえてくる。「どうするの?」と言わんばかりにこちらを見つめる彼女。眉間にしわをよせた表情は、困惑と言うより、あきれているようにすら見える。
 答える代わりに首を横に振った。彼女は一度ほど溜息を吐いて、それからカイの方に顔を向けた。
「捨て置きなさい」
 その言葉に兵士達が動きを止めた。それをいい事に、カイを乗せた馬はあっという間に走り去ってしまう。
「……頼みがある」
「どのような?」
「彼を追いたい。手を貸してくれないか」
「アドビスへ行くおつもり?」
「そうだ」
「…………」
「…………」
「……いいでしょう。ライザ、ミネルバ、こちらに来なさい」
「「はっ」」
 思わず声を漏らしてしまった。その女と目があった瞬間、ライザと呼ばれた人間に関する、ありとあらゆる記憶が押し寄せてきたのだ。俺はこの女と会った事がある。ルハーツが追っ手をよこした時に、彼女はミトの命で、俺達の元へとやって来た。その命とはルハーツの手から俺達を護るという事。その意図はミトのそれとは異なっていたけれど。すなわち、俺を国家変革の道具としてしか見ていなかったという事。
「あら、お知り合いかしら?」
「いいえ」
 俺よりも先にライザが答えていた。彼女は「まあいいわ」と言わんばかりにフッと微笑み、それから「この方達をアドビスまでお連れして」と付け加えた。


 アドビスへと続く本道を走る早馬が二匹。ライザの馬には俺が、ミネルバの馬にはイリアが乗っている。
 空は鬱蒼と生い茂った木々に覆い尽くされ、その僅かな隙間から紅の光が差し込んでくる。予想以上に時が経つのは早いらしい。誰も口を開く事のない静寂の中、唯一蹄の音だけが刻々と時を刻んで行く。何を話して良いか解らない、というのは確かにある。立場的に不適切だ、と考えるのも、至極当然の事だ。だが、この静寂の理由はそのように単純なものではなかった。それにはもっと内面的な、心の奥底に根付いた理由がある。そして、その答えは互いの鋭い視線の内にあった。
 互いの心の内に疑心暗鬼が渦巻く中、それが姿を現すのも時間の問題であったのだ。二人が次の分岐路で本道を外れた時、突然沸き起こってきたある疑惑が、頭にこびりついて仕方がなかった。
「何故本道を外れた!? こっちだと遠回りになるぞ!!」
「本道は崩落していて通行できません。彼がそちらに行ったならば先回りできるでしょう。それとも、引き返しますか?」
「あ…………」
「危害を加えるつもりはないと、前に言ったでしょう。貴方にどのような感情を抱いていたとして、随意に不利益になるような行為に及んだりはしません。もちろん利益になるようなことをしようとも思いませんが」
 呆然と声を漏らした時だった。背後から飛び込んできたのは、大地を揺さぶらんばかりの爆音。ライザの身体にしがみついたまま、反射的に振り返ってみる。そこに見たのは、物凄いスピードで近づいてくる光の柱。紛れもなくレファスタのそれであった。
「何があったの!?」
「光の塔だ! レファスタの光の塔がこっちに近づいてきてる!!」
「ふざけないで! そんな事あるわけ……あっ!?」
「どうした!?」
「馬が言う事をきかない! くそっ!!」
「まずいな……おい、イリア! 聞こえるか!! イリアッ!!」
 俺の声に反応して振り返るイリア。しかし、すぐに左手で耳を押さえると、首を横に振って見せた。風のせいで声が届かなかったようだ。もう一度後ろに振り返ってみると、光の柱は依然速度を落とすことなく、こちらへと近づいてきていた。まさにいつ巻き込まれてもおかしくない勢いだ。
 ライザの背中にしがみつきながら、思い切り歯を噛みしめた。ガリッという嫌な音が脳髄にまで響き渡る。このままここにいればどちらかが、もしかしたら両方ともやられてしまうかも知れない。あいつを護ると約束したのに。もう二度と悲しい思いはさせないと誓ったのに。そのような思いがぐるぐると頭の中を回っていた。
 鞍の上に立ち上がろうとしていた。しかし不安定な足場に加えて、つるつるした鞍に足をとられてしまう。反射的にライザの服を掴んで、両腿で馬の胴体を思い切り挟み込んだ。
「ちょっと! 何をしてるの!!」
「あっちの馬に移るんだ」
「貴方に出来るわけないでしょ! そんなことしても落ちるだけだわ!!」
「心配してくれるのか?」
「馬鹿を言わないで頂戴! とにかく無理なものは無理なのよ!!」
「……やってみせるさ。しっかり掴まってろよ」
 左手で彼女の服を掴んで、そろそろとイリアの方に身体を向ける。続いて右手を後ろに差し出して、それから術の詠唱を始めた。
「ちょっと……馬鹿な事を考えてるんじゃないでしょうね?」
「近距離で発動させた術の衝撃波を使う。俺が移ったらお前も飛び降りるんだ。いいな?」
 軽くジャンプをした瞬間に術を発動させた。術のコントロールに右手しか使えなかった事が仇となったらしい。不均衡な力の塊がぶつかってきて、上体が傾いたままイリアの身体とぶつかってしまった。
「きゃっ!?」
「うわっ!!」
 勢いよく地面にぶつかる二人の身体。少し遅れて、すぐ傍を歪んだ金属音が通り過ぎていった。イリアの身体をギュッと抱きしめながら顔をあげる。
 矢の如く走り抜ける光の柱。それはミネルバと馬の体を切り裂いて、真っ二つになった遺骸はドサッと崩れ落ちていた。それに驚いたライザの馬が大きく前足を振り上げる。為す術もなく振り落とされる彼女。それから、どさっと鈍い音が響き渡った。
「大丈夫か、イリア!」
「う……うん。でも一体何が……」
 反射的に彼女の目を覆っていた。
「見るんじゃない」と囁きながら、もう一度彼女の身体を抱きしめてやる。
 彼女は何も応えなかった。だが、その言葉の意味を悟ったのだろう。俺の服の胸元を握りしめると、か細い指にギュッと力を入れた。
「もう大丈夫だ、全部終わったからな」
 小さな身体を抱きしめたまま、優しく髪の毛を撫でてやった。小刻みに震える彼女の身体。俺の胸に食い込んだか細い指。全てが酷く痛々しく見えた。
 額に軽く口づけをして、それから彼女の瞳をじっと見つめる。俺の言わんとしている所を察したか、「いやいや」と激しく首を振って見せた。
「大丈夫だ、すぐに戻ってくる。約束だ。それまで目を瞑ってここにいるんだ。何も見るんじゃない。いいか?」
 少し遅れて、ぎこちなく頷く彼女。決して本心からではなかったであろう。それを免罪符とするのに、些かの罪悪感をも感じなかったと言えば嘘になる。しかし、ライザを放っておくわけにもいかなかったのだ。
 もう一度イリアの髪の毛を撫でて、ライザの元へと向かっていった。途中で一度だけミネルバの方に視線を向けてみる。生々しい断面を曝した遺骸。周りにはどす黒い血だまりが出来ている。万が一にも生存の可能性はあり得ないという事、それは誰の目にも明らかだった。
「大丈夫か?」
「何とか……ね。彼女は?」
 答える代わりに首を横に振った。きっかりと二度ほど。それを見てゆっくりと目を閉じる彼女。そして一つだけ溜息を吐いた。感情を悟られまいとしていたのだろう。微かに震える睫毛以外、それはうまくいっているように見えた。
「立てるか?」
「ええ。あっ……」
「無理をするな。肩を貸すから、俺に掴まるんだ」
「そんな事したら、あそこの彼女が妬いちゃうでしょ」
「こんな時に冗談か?」
「じゃないとやってられないわよ。んぁ……」
「いいから肩に掴まれって。ほら」
「…………」
「よし、何とか歩けそうか?」
「私の事はいいから。だから貴方達は先に行きなさい」
「馬鹿な事を」
「ふふっ……ウィザードに助けられるほど落ちちゃいないわよ」
「別に助けるわけじゃないさ。お前達が余計な脇道に入ったから道が解らないんだ。近くの村まで案内してくれてもいいだろ?」
「村まで、ね。食えない王子様だわ」
「お前に食われてたまるか。さあ、行くぞ。肩を貸すから掴まるんだ。いいな?」
「……解ったわ」

DAY15 アドビス以北の村 スサ

 スサに到着した俺達は、真っ先に施療院へと向かっていった。魔法医こそいなかったが、このような所で医者を見つけられただけ幸運だろう。診断は捻挫。それ以外目立った外傷はないらしい。取りあえずは一安心といった所だ。これ以上俺たちにできる事はないだろう、そう思って施療院を出ようとした時、背後から呼び止める声が聞こえてきた。
「待って!」
「ん……どうしたんだ?」
「貴方の事誤解してた。それに酷い事をたくさん言ってしまって……本当にごめんなさい」
「構わないさ」
「これからどうするつもり?」
「さあな。でもどうにかして城まで行くしかないだろ」
「ここはかつて金鉱の村として栄えていた。採掘された金はトロッコを使って王都まで運ばれたと聞いているわ。既に閉山されて久しいけれど、トロッコはまだ残っている筈よ」
「そうか。ありがとう」
「私の方こそ……ありがとう」

DAY15 アドビス王都

 事態は想像以上の早さで進んでいった。城下は既に魔物の巣窟と化して、城内へと入る為には、非常用の地下通路を通らねばならなかった。そこで俺達を出迎えたのはむせ返るような血の臭い。そしてレファスタと同じく血で描かれた数々の魔法陣。酷い吐き気を何とか堪えながら、俺達は最上階の謁見の間へと向かっていった。

 ドアを開けるや否や、目の前にカイの身体が飛び込んでくる。俺達の登場など予想だにしなかったであろう。その顔に刻まれた険しさが一瞬ほどなりを潜める。
「おやおや……誰かと思えば王子様のご登場ですか? どこまでも私の邪魔をしなければ気が済まないようだ」
 部屋の奥に視線を移す。そこには仮面をつけたイールズ・オーヴァが、口元を歪めながら俺達を見つめていた。そして奴の向こう側にはジェンドが、真っ白なシーツに覆われた台の上に寝かされていた。
「一体どういうつもりだ?」
「どういうつもりと言われましても」
「これだけ多くの無実の人間を巻き込んで……飯事にしちゃ度が過ぎるんじゃないのか?」
「無実の人間? まさか本気でそのように思ってらっしゃるわけではないでしょうね?」
「彼らがどのような罪を犯したと言うんだ? 日々慎ましやかな生活を送っていただけだろうに。それをお前がぶち壊した」
「貴方は何も解っていない。人間などこの星の命を食いつぶす事しかできない愚かな生き物だ。生殖と淘汰を繰り返していく非生産的な被造物でしかない。この世界の創造者が神だというなら、彼の過ちはその統治を人間に任せてしまったという事。いや、そもそも人間如きに統治が可能だと考えた事自体愚かな事だ。私はこの世界に寄生する人間達を浄化する。これはこの世界のアポトーシスなのです。この星はその執行者に私を選んだ。私はこの世界を浄化し、新たなる世界を創造する。私は同じ過ちを犯しはしない。その意味において、私は神をも越えた存在となるのです」
「そのような事ができると思っているのか? それにどれだけご託を並べても、お前が人間だという事に変わりはない」
「私は人間を越えた存在となる。今現在の私が何であるかは重要ではない。私が何者であるか、それは全てが終わった後で決定されるべき事」
 ゆっくりと両手を差し出すイールズ・オーヴァ。その先に何かが浮かび上がってくる。半透明の緑や灰色で覆い尽くされた何か。徐々に輪郭を持ち始めたそれを俺は知っている。実際にそれを見た事はない。だが、奴の前に浮かび上がったそれは、地図で見たオッツ・キイムの姿に酷似していた。
「見なさい。私はこの世界を見下ろす眼を手に入れた。オッツ・キイムの真の姿を見た事など無いのでしょう? ネツアク、イエソド、イェールス、カレルア、ユリアヌス、レファスタ……全ての封印は解かれ、ヘキサグラムは動き出した。もう誰にも止める事など出来ない」
 イールズ・オーヴァの言葉にあわせて、一つずつ神殿が光を帯びていく。全ての神殿に光が灯り、そこから伸びていった光の線は、ゆっくりとヘキサグラムを描いていった。
「……そう言う事か。ヘキサグラムを発動させる為には大量の魔力が必要だった。それを手っ取り早く手に入れる為に、お前は魔術師達を利用した。その為の血と肉か……そんな事のために!」
「さすがだ。前回は魔力が足らなかった為に結界の発動までは至らなかった。だが今回は違う。全ての条件が揃った今、貴方達に邪魔はさせない」
「黙れッ!!!」
 剣を抜いたと同時に走り出すカイ。一方のイールズ・オーヴァに動じる気配はない。ただ、差し出した両の手をゆっくりと上げ、何か術を唱えているようだった。手の先から柔らかな光が生まれ、それは少しずつ球体を形作っていく。
 奴の一挙手一投足を逃さないように見つめながら、両の手をぐっと握りしめた。その拳に神経を集中させて、詠唱を必要としない低級魔術を展開させる。少しずつ熱を帯びていく拳。だが、それを今発動させるわけにはいかない。タイミングを見誤ればどちらかの魔法がカイを貫く事となる。
「兄さん、危ない!!」
 光の球が放たれたと同時にパッと手を開いた。この瞬間でなければならなかったのだ。両の手から紅に染まった光の玉が生み落とされ、それらは鋭い音を立てながら飛翔を始めた。幾度と無く交差を繰り返す光の玉。そしてあっという間にカイを越えて、彼の目前で奴の放った光球と衝突した。
 目映い光を放ちながら砕け散る互いの魔法。もくもくと沸き起こった煙がすうっと引いて、その先にカイの姿が現れる。次第に距離が狭まっていく中で剣を振り上げる彼。しかし、イールズ・オーヴァとて黙ってやられるつもりはない。奴の指先には再び光の球が現れて、放たれたそれは、今度こそカイの身体を捉えていた。
「うわっ!!」
 致命的なダメージは免れたようだった。肺が飛び出すのではないか、と思う程の咳を何度も繰り返して、それでもカイは起きあがろうとしている。その姿を見ながら、ゆっくりと右手を挙げるイールズ・オーヴァ。ぶつぶつと何かを呟いてから、勢いよくそれを振り下ろした。
「イールズ・オーヴァァァァァァ!!!!!!」
 何とか立ち上がったカイも奴めがけて駆けだしていく。しかし目前まで来た所で、目に見えない壁が、彼を弾き飛ばしていた。
「残念ながらあなた方のお相手をしている暇はないのですよ。私の代わりは彼らにしてもらいましょう」
 再び手を差し出すと、今度はカイの周りに大勢の魔物達が姿を現した。どうやらこれで時間稼ぎをするつもりらしい。馬鹿にするように喉を鳴らして、奴はジェンドの方へと振り返っていった。直後、壁に描かれていた魔法陣が紅の光を放ち始める。
「カイ、60秒経ったら戻ってこい! 俺が魔法で片付ける!」
 返事を待たずに詠唱を始める。今度ばかりは手抜きの魔法を使うわけにはいかない。それで対処できる敵の数ではないのだ。出来うる限り精神を集中して、一字一句正確に呪文を唱えていく。一つ一つの言霊が作り上げていく強力な磁場を全身で感じていた。しかし、完成まであと少しという時にそれは起こった。
「お兄様!!」
 突然飛び込んできた聞き覚えのある声。思わず術を唱える唇が止まってしまう。そして恐る恐る振り返った瞬間、俺の脇を数人の兵士達が足早に駆け抜けていった。
「ミト……」
 その名を口にしながら「しまった」と思った。あわてて振り返ってみるが、やはり混戦は始まっていた。
 魔法を使うわけにはいかなかった。兵士達を巻き込んでしまう事は避けられないであろうから。荒い息を吐きながら奥歯を噛みしめ、そして再びミトの方へと振り返った。
「どうしてお前がここにいるんだ!!」
「ライザが怪我をおしてやって来て、それでお兄様がここにいると……」
 背後から鈍い音が聞こえてくる。反射的に振り返ると、そこには既に息絶えた兵士が横たわっていた。その手に握られていた剣をすかさずもぎ取る俺。その上に右手をかざすと短く呪文を唱えた。それは微かな振動音をたてながら、やがて淡い光に包まれていった。
「お前達はここにいるんだ。いいな?」
「シオンはどこに行くんだよ!?」
「カイの所に行く」
「駄目だよ! シオンに剣なんて使えないだろ!! 襲われたらどうするんだよ!?」
「魔法をかけておいたから多少の事なら大丈夫だ。それにあの結界を破れるのは俺しかいない」
 みるみるうちに泣きそうな顔になっていくイリア。それを隠すように堅く目を瞑る。それから俺の身体をバンッと押して「行って!」と叫んだ。

 無我夢中で走っていた。
 剣にかけた魔法は、何ら問題なく動いていた筈だ。振り上げるのに些かの力も要さない、羽のように軽い剣。しかしどう扱って良いか解らなかった。振り上げた瞬間にやられてしまうのではないか。立ち止まったら逃げ場を失うのではないか。そのような不安と恐怖が俺を縛り付けていた。この時、既に兵士の半数以上がやられていた。
 どこをどう走ったか解らない。ただ、気がついたらカイのすぐ傍までやって来ていた。すぐに彼と背中合わせになって、振り上げた剣で魔物を威嚇する。
「俺が結界を破る。それまで魔物を近づけずにいられるか?」
「ええ、任せておいて下さい!」
「チャンスは一度しかないぞ。奴が次の手に出る前に終わらせるんだ」
「解っています!」
「行くぞ!」
 背後から肉を斬る鈍い音が聞こえてくる。しかし振り返りはしなかった。カイが命をかけて作り出した時間だ。ほんの僅かでさえ、それを無駄にするわけにはいかなかった。
 結界の前まで来た所で両の手を差し出した。足をグッと踏みしめ、それからゆっくりと目を閉じた。頭の中で、結界を解除する術を一気に組み立てていく。この状況において最も効果的で、能率よく働く魔法を。そして再び目を開くと術の詠唱を始めた。
 言葉を紡ぐ度に透明な結界の表面がぐらりと揺らぐ。水面のようなそれを生み出すのは屈折した光のヴェール。術の展開にあわせて、その揺らぎは少しずつ大きくなっていく。この磁場を抱き続ける事が如何に魔力を要する事か。何とか持ちこたえようという意志に反して、体中からするりするりと力が抜けていく。だが、ここで倒れるわけにはいかない。自分の身体に言い聞かせるようにグッと足を踏みしめる。それから、詠唱の最終段階に入った。
 掌と結界の間に稲妻が走り、それはバチバチと音を立てながら、結界全体を呑み込んでいった。これ以上は看過できないと悟ったのだろう。俺に何の関心をも抱いていなかったイールズ・オーヴァがゆっくりとこちらに振り返る。
 瞳に映った奴の顔がにやりと笑う。それから結界越しに俺と掌を重ね、何やら術の展開を始めたようだった。結界が消えた瞬間に攻撃するつもりなのだろう。そうなれば無防備な俺に抵抗の余地はない。
 結界の表面を這っていた稲妻が、その奥へと呑み込まれていく。蒼白い光を帯びる光の壁。どこからともなくひびが入って、それはピキピキと音を立てながら、まもなく全体へと広がっていった。そのタイミングを見計らって、奴の両手から光の玉が浮かび上がる。透明だったそれは血を垂らしたように紅に染まって、結界の前で交差しながら、くるくると回転を始めた。
 硝子が割れるような音をたてながら砕け散る結界。解き放たれたイールズ・オーヴァの魔法。視界が紅に染まった瞬間、突き飛ばされたような強い衝撃が身体を襲った。何が起こったのか理解できないまま、ただ背中に鈍い痛みだけを感じていた。肺が圧迫されてうまく息も出来ない。
 俺の名を呼ぶイリアの声が聞こえた気がした。床に爪をたてながら、その声をたぐり寄せるように、ゆっくりと目を開く。突然視界に飛び込んでくる毛むくじゃらの腕と鋭い爪。死ぬのかーー心の中でそう呟いた瞬間、拳のようなものが魔物を殴り飛ばしていた。
「シオン!!」
「え……」
「早く逃げるんだ! ほら!!」
 イリアの為すがままに上体を起こす。その先に見えたのはイールズ・オーヴァに剣を振り下ろすカイの姿。光の残像と化した太刀筋は奴の上体と重なっていた。
 奴が生々しい呻き声を漏らす。狂ったように魔法を放つ。カイの身体が宙を舞って、地面に叩きつけられる。反射的に彼女を押し倒した俺は、その上に勢いよく覆い被さる。狂気じみた顔つきのイールズ・オーヴァが近づいてくる。俺は確かに見たのだ。その先に立ち上がったジェンドの姿を。ゆっくりと上げた掌が奴の後頭部を捉え、その気配に気付いたようだった。奴が振り向こうとした瞬間、掌から赤い光が放たれる。思わず目を瞑ってしまうような目映い光を。そして次に目を開いた時、そこには床に崩れ落ちたイールズ・オーヴァの姿があった。後に残ったジェンドがゆっくりと顔をあげる。俺はその時に見た彼女の瞳を絶対に忘れない。紅に染まった虚ろげな瞳は、何かを訴えるように俺達を見つめていた。そこに意志の介在する余地などあろう筈もないのに、彼女の心の叫びを聞いた気がしてならなかった。不意にその瞳から光が消えて、彼女の身体がゆっくりと崩れ落ちていく。
「ジェンド!!!」
 最愛の人の元へと駆け寄っていくカイ。その腕はしっかりと彼女の身体を抱き留めていた。
 全てが終わったのだと思った。これが幸せな結末に繋がるかどうかは解らない。ただ、これで全ての決着がついたと思った。しかし、その思いはすぐさま裏切られる事となる。
 部屋全体に描かれていた魔法陣が突然赤黒い光を放ちはじめ、次いで城全体がガタガタと強く揺れ始めた。その瞬間、イールズ・オーヴァの『もう誰にも止める事など出来ない』という言葉が頭をよぎった。オッツ・キイム中の力がアドビスに集められている。神殿によって保たれていたパワーバランスは既に崩れ去った。奴の術が完成していなかったとして、結集した力が暴走したらどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
「まずいな……このままじゃ城ごと崩れちまう。カイ! ジェンドを連れて急いで逃げるぞ!!」
「こっちは俺一人で大丈夫です! だからみんなは先に!!」
「解った。イリア、ミト、急いで城の外に出るぞ!」
 互いに頷きあってから、部屋中をぐるりと見回してみた。あちらこちらに散らばる無数の遺体と遺骸の山。ミトの連れてきた兵士達は、為す術も無くやられてしまっていた。

 城下に溢れかえっていた魔物達は、いつの間にか姿を消していた。無人と化した路地を走る者達が四人。ジェンドはカイの背中におぶさっている。背後から聞こえてくる轟音はますます大きくなって、それはいっこうに収まる気配を見せなかった。
 目に見える、耳に聞こえる全てが、最悪の結末を指し示していた。これ以上逃げる事に何の意味があるのだろう? 僅かながらの距離を稼ぐ事で助かるというのか? そのような思いが頭の中に沸き起こってくる。
 先を急ぐイリア達を見つめながら、ゆっくりと足を止めた。聞こえてくる筈の足音が消えた事にすぐさま気付く彼女。
「シオン! 何やってるんだよ!! 早く逃げないと!!!」
 その声に反応してカイとミトも足を止める。一様に「どうして」という表情をしながら俺を見つめる三人。それに応えるように首を横に振ってみせた。
「駄目だ……もう間に合わない」
「シオンの馬鹿!! やってみなきゃ解らないだろ!!」
「お前だって解ってるはずだ。この至近距離で巻き込まれて助かるわけがない」
 それからミトの顔をじっと見つめた。彼女はすぐさま俺の真意を悟ったようだった。口の端を微かに弛め、応えたのはたった一言「そうですね」とだけ。彼女らしい簡潔なものだった。
「どういう事だよ!?」
「俺とミトで防御結界を張る。もしかしたらそれで生き残れるかも知れない」
「あ……」
「確かに……それしか方法はないかも知れない。俺は任せます」
「イリアは?」
「……ごめん。私も任せる」
「よし」
 ミトの帯剣を引き抜いて切っ先を下に向ける。艶めかしい光を宿した刃に左手をかざし、先ほどと同じように短く呪文を唱えた。一瞬のうちに蒼白い光を帯びる刃。パッと手を離すと、それは柄を残して土の中へと呑み込まれていった。
「いいか、この剣を中心に俺とミトが結界を張る。イリアとカイは俺達の身体をしっかりと掴んでいるんだ。体勢は出来る限り低く保て。そうすれば風の抵抗を少なくできる。カイ、ジェンドの事を頼んだぞ」
「ええ、もちろんです」
 地面に横たわった俺とミトが剣を握りしめる。俺の方にはイリアが、ミトの方にはカイが、それぞれの身体にしっかりとしがみついていた。
 結界を張った瞬間、大地が張り裂けんばかりの爆音が鳴り響いた。少し遅れて、背後から突風が吹き荒れてくる。舞い上がった砂埃に紛れて飛び交う無数の石や材木。結界の内とはいえ、僅かながら衝撃が和らいでいるにすぎないのだ。抑えきれなかった力の波に、ずるりずるりと身体が流されていく。
 視線の先に紫色の何かが揺らめいていた。灰色に染まった景色の中で、唯一強烈な色彩を放つジェンドの髪の毛。冷静な思考などできよう筈もない極限状態の中で、俺は食い入るようにその景色を見つめていた。目瞬きをする度に遠ざかっていく彼女の姿。初めのうちは、それが意味する所など、考えもしなかった。しかし、ある瞬間を境に全てを悟ってしまったのだ。
 急いで傍にいる筈の「彼」の姿を探し求める。難しい事ではなかった。すぐ傍を探せば、必ず彼はいるのだから。二人は決して離れたりしないのだから。
 目があったと同時に、彼はフッと笑ってみせた。そして、その笑顔は俺を酷く不安にさせたのだ。
「カイッ!!!!」
 彼は何の戸惑いもなくミトを掴んだ手を離していた。彼が最後に見せた笑顔の意味、それは自分に出来る全てをやったのだという事。この世界を護る事ではない。ましてイールズ・オーヴァを倒す事でもない。それは最愛の人を護りきったのだという誇りだった。



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